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後藤新弥さん (1) |
2008/12/05 11:56
その日岐阜県飛騨地方では平野部でも初雪に見舞われた。高山市高根町野麦の集落から、雪の旧道をたどって2時間。山本茂実著「あゝ野麦峠」で知られる峠(1672メートル)に着いた。出稼ぎ先、諏訪の製糸工場で倒れた政井みねさんは、兄に背負われてようやくここまで帰ってきたが「ああ、飛騨が見える」と言い残して、息絶えた。悲劇の舞台、風が白かった。
☆えっ冬季封鎖 かつて江戸街道と呼ばれ、飛騨と信州を結ぶ要路だった旧道は、集落の先で車道から林道に入り、やがて急な山道になった。 車で行く予定がその日から車道は冬期封鎖。まさに徒歩ホ、歩くしかない。9月末に御嶽山で足首骨折、全治2カ月。後遺症でひざが痛むが弱音は恥だ。明治から昭和の初めまで、飛騨の娘たちは長野県岡谷などの製糸工場へ働きに出た。 この峠を越えていったのだ。途中の地蔵堂付近はがけが切れ落ち、滑落した者もいた。それを思えば。 鼻水がぶらぶらと垂れる。吐く息が荒くなる。62歳のラマーズ法だ。約5キロ、2時間かかった。小さな池が凍っている。粉雪交じりの風が吹き抜けている。
☆小百合さんが 当時21歳のみねさんは途中松本での治療も拒否し、ひたすら故郷の飛騨・角川(岐阜県飛騨市河合町)へ帰りたがった。辰次郎さんは仕方なしに妹を背負い、ここまできた。難儀な旅だった。ようやく峠に着くと「ああ、飛騨が見える」と喜び、そして息絶えたという。1909年(明42)11月20日午後2時ごろだった。 ところがいさ峠に立つと、山に遮られて飛騨が見えなかい。同じ日、同じ時刻に同じ場所に立って供養したかったのに。小さな落胆、あれは作り事なのか。 「いいえ。彼女は心の中で故郷を見たのです」。引き返した後、シーズン中は峠の資料館「野麦峠の館」で館長役を務めている堀野徹さん(64)を集落に訪ねた。感動は倍になった。 「目には見えなくても、彼女は心で飛騨の景色をはっきりと見た。これで死ねる、と思ったのでしょう」。兄への感謝の言葉でもあったに違いない。見えなくても見えたと喜んだ乙女心に、そっと手を合わせた。 堀野徹さん もっとも展望台まで上れば乗鞍、御嶽の雄大な景色が広がります。69年には吉永小百合さんがここを歩きにみえました。彼女の映画は実現しませんでしたが、展望台には小百合さんが贈ったという石碑も。また峠のお助け小屋は野麦集落にあった古い宿を解体して再建したものです。70年の車道開通に合わせ、長野側から大回りして材を運びました。飛騨は昔を大事にしますから。 時空のひだの奥深く、今は見えない幾多のドラマが胸を打つ。
☆町長並み収入 当時の娘たちは古川(飛騨市)の「八ツ三」旅館などに集まり、集団で信州へ向かった。しかし貧しい娘たちが泣く泣く売られたという見方は必ずしも当たらない。郷土史に詳しい後藤新八郎さん(81=元古川町文化財保護審議委員)を静かな町並みに訪ねた。 後藤新八郎さん 「手元の河合村(12年当時)の古文書には『前年の出稼工女114人、平均賃金年36円』と。熟練者は百円工女と呼ばれた。病死も多かったが、昭和初期には町長並みの収入を得た者も。飛騨の人間は泣き言を言わず、悪条件もこれが自分の道と心得て、任務には正面から励む。奈良時代に飛騨の匠(たくみ)と称された男衆もそうだった。米の飯を食べ、盆暮れには土産を買って故郷に帰る。喜んで働きにいった娘も多かった」。 堀野さんも同様の話をされていた。だから一層悲しくもあるのだが、雪道に挑んだ復活冒険は報われた。 飛騨の心が見えたのだ。(連載終わり)
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